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one hundred years

恐竜のまばたき

茶石 文緒

 ひとはわたしを美しいと言います。すばらしく優雅で、すらりと高く、この街の誰もに愛される存在だと。誉められるのは確かに悪い気はしませんけれど、わたし自身は、自分のことをそれほど美しいとは思わないのです。わたしは古代の英知を受け継ぐ恐竜のようなもの。重く、大きく、ひたすらゆっくりと呼吸をしながら、足下を行き交うものたちを見下ろしているだけ。いいえ、この場所から一歩も動くことができない分、もしかすると恐竜よりも無粋な存在なのかもしれません。

 わたしが生を享けたのは、もう一世紀も前のこと。わたしを造り上げたのは、誇り高く、賢く、力強い人たちでした。何十人もの男たちが手順よく鉄の骨を組み、からだの中が淀まないようそこかしこに孔を開け、血管や神経を通すようにコードやパイプを張り巡らせていきました。それは忍耐と知恵と力、そして大きな愛情が必要な作業でした。
 よく晴れた朝のこと、男たちは作業にかかる前に、にぎやかに輪をなしてくじ引きを始めました。選ばれたのはひとりの若い技師で、彼は周囲に促されるまま靴を脱ぎ、それをわたしの足下に捧げてくれました。生きた人柱の代わりに靴を捧げるのが彼らの習慣だったのです。そんなことをされなくても、わたしは何の犠牲も求めはしないのに。でも、彼らの律儀さは微笑ましく思えましたし、歩くことのできないわたしに同情し、せめて靴だけでも道連れにという気遣いだとしたら、それはとても嬉しいことでした。
 靴をなくした彼は昼食までの数時間を裸足で過ごしました。仲間の揶揄の声に照れ笑いで応え、危険な地面を避けて鉄骨の上だけを注意深く歩むようにして。そのやわらかな重みを受け止めながらわたしは、彼の足を決して傷つけるまい、あの靴と引換えにわたしは命を捧げ、人間たちを守ろうと誓ったのです。その決意はせつないほど強く、一瞬で全身に染みわたりました。彼がわたしを覚醒させ、生命を吹き込んでくれたのです。
 わたしの心はもはや無機物ではなく、みずみずしく生きたものとなりました。それが通じたのか、彼はふいに黙り込み、わたしをじっと見つめました。その眼差しを、わたしは今も覚えています。そこには崇めるような熱と、そして抑えようもない知性と誇りの光がありました。なんて美しい、けれどわたしにはあまりに遠い人。その瞬間に心を締めつけた痛みは、とても甘いものでした。その感情をどう名付けるべきかはわかりませんでしたが、その甘さを、わたしは確かに知ったのです。

 「ああ、お前はなんて綺麗なんだ、まさに俺達の誇りだ、お前さえいてくれれば俺には永遠の生命なんていらない。俺達がいなくなってもお前は残るだろう、いつまでも美しく在り続けるだろう」

 1年半後、ようやくすべての作業が終わり、わたしは覆いを外され、この街で最も高い建物として、そして街の愛すべきシンボルとして街並に披露されました。地上22階というのは当時の人びとにとっては未知の高さで、幾千人の人たちが訪れては景色を愉しみ、そのうち幾百人かはカメラを携えてその光景を切り取ってゆきました。そしてその人波が引いたあとには、ほとばしるような意思と電気、そして人の成す秩序がわたしを支配しました。わたしの身体は、ここで働き、糧を得る人たちが集う場所となったのです。
 わたしは自らの義務を喜んで受けいれ、彼らを守るために全てを尽くしました。大地震に襲われた時ですら、崩れることなく踏みとどまったのです。揺れが続く間、足下に埋められたいとしい靴のことだけを思っていました。これっぽっちのことで崩れるわたしを、彼は決して見たくないでしょう。その一心で、わたしは必死で耐えました。そうすることで、わたしを創った彼らへの評価は確かなものになり、わたし自身も信頼に足る存在として認めてもらえるのです。離れていても、わたしたちはチームでした。地中に眠る一対の靴が、生あるものたちと無機的なわたしとの絆をつないでくれていたのです。

 ところで、わたしが自分に与えられたものの中で一番気に入っているのは、建物の頂につけられたふたつの眼でした。それは赤い光を放ち、ゆるやかなリズムで瞬きを繰り返しています。便宜上は飛行機へ存在を知らせるためのものでしたが、実際にはそれ以上の意味を持っていました。これはわたしが生きている証拠。わたしの眼であり、心臓の鼓動であり、呼吸のリズムでもあるのです。
 その眼は決して眠らず、世界の変化を常に見つめていました。そう、自分のことをさして美しくもないと思うのは、この世にもっと美しいものがあふれていることを、自分の眼で知っているからなのでしょう。
 世界は変化と輝きに満ちています。たとえば頭上を行き過ぎる飛行機たちの流線形と、その軌跡が吸い込まれていく蒼穹の完璧さ。毎日繰り返される夜明けと日没の複雑な色彩、冬にはらはらと降りてくる雪の静けさ。わたしは夜も好きでした。夜空には冷たい月が冴え、そして足下にはわたしと同じく眠らない、タクシーのテールライトの赤い河。西へ東へ自由に流れて行く彼らを、わたしは少し寂しく見送ったものでした。
 そして何よりも、わたしを惹きつけたのは人でした。決して彼らの仲間にはなりえないことはわかっていましたが、わたしは彼らが大好きでした。しなやかな骨と肉で全身を力強く組み上げた男たち、甘いカーヴを描いた身体を鮮やかな布に包んでオフィスに通う女たち。踵の高い靴に支えられた華奢な足首が右、左、そしてまた右とリズミカルに空を切るさま。それはまさに奇跡のようでした。
 わたしは彼らに対し、ほとんど憧れのような気持ちを抱いていました。あんなにも軽やかで、バランスのとれた手脚を自由に操って。彼等が私の体内で憩い、考え、笑ったり怒鳴ったり溜息をついたりしながら議論や取引に精を出しているのです。午後には紙コップのコーヒーを飲みながら門の前で立ち止まり、空を見上げて雲を追ったりしているのです。なんてちっぽけで愛しい営み。全ての人が捌けて、体内がしんと静まり返る真夜中でさえ、そのさまを思い浮かべるだけで、いじらしさに泣けてくるほどでした。

 一世紀の間に、世界は絶え間なく変化しつづけていました。時には沈滞や破綻もありましたが、その次には必ず治癒と進化が訪れました。街の変化に伴い、ここへ通う人間たちもまた、顔ぶれや外見を変えていきました。変わらないのはわたしだけ。これからも同じように街を見つめ、自分の義務を果たしつづけるものと信じていたのです。あの日、運命の朝、ひとりの若者がわたしを訪れるまでは。
 徒歩でゆったりと近づいてくる彼の姿に、わたしは3ブロックも先から気づいていました。彼は細身で背が高く(そう、わたしほどではないにせよ)、強い意志と情熱を宿した眼をしていました。黒く丈の短いコートに色の褪せたジーンズを履き、手には旅行用の大きなボストンバッグ。履き古したワークブーツの踵は錘のように規則正しく、アスファルトを打つ振動を地盤に伝えてきました。オフィスにはおよそ不似合いな格好でしたが、足取りには微塵の迷いもありません。まるで目に見えない糸に導かれるように、人込みを縫いながら、まっすぐわたしの方へやってたのです。
 彼はわたしの足下へやって来ると、噴水の縁石に腰を降ろしました。足下にバッグを置き、コートのポケットから煙草を取り出すと、少しうつむいて紙マッチで火を付け、深く煙を吸い込むと、ようやく静かになりました。
 彼は美しい若者でした。眼差しは鋭さと純粋さに貫かれ、その上に落ちかかる黒みがかった髪は細く艶やかでした。肌はよく熟れた果実のように滑らかで、しぐさはどの瞬間を切り取っても完成されたフォトグラフになりそうな、しなやかな均衡を湛えていました。
 魂が、抗いがたい引力に吸い込まれるようでした。茫然と彼に魅入られながら、わたしはいつか靴を捧げてくれたあの技師を思い出しました。彼がわたしに逢いにきてくれた、一瞬そう信じたのです。あれから流れた時間を思えば、彼は既に年老い、おそらく生きてさえいないでしょうに。それでもいい、わたしは錯覚と知っていながら記憶に身をゆだね、歓びにふるえました。それほどまでに彼を慕い、懐かしんでいる自分自身に驚いたほどでした。
 呼吸を繰り返すたびに、彼の煙草の先の火種が紅く明滅しました。それはひそやかな暗示のように、屋上で瞬くわたしの眼のリズムとシンクロし、わたしは世界に自分と彼しか存在していないような錯覚に陥りました。まるで真空のごとき緊密さがわたしたちを繋ぎ、それだけで世界を完全なものにしているようでした。
 わたしは自分を嘲おうとしました。なんという勘違い。人間を恋い求めるあまり、自分が愚かな錯覚に陥っているのだ、そう自責しようとしましたが、けれどそれも全くの間違いではなかったのでしょう。彼は確かにわたしを見ていました。眼前を慌ただしく行きすぎる美しい女たちには目もくれず、ただ、わたしだけを見つめていたのです。
 彼の視線はゆっくりと上がってきました。大理石のファサードと、光が差し込む7階分のガラスのアトリウム。建物の前面には256の窓があり、磨かれたガラスが朝陽を跳ね返しています。彼の視線はそのひとつひとつを検分し、徐々に上へと這い上がってきます。
 街に馴染んだ風景の一部ではなく、ひとつの存在、わたし自身として誰かに見つめられるのは、ほんとうに久しぶりでした。鋭く澄んだ眼差しが、水のように徐々に迫り上がり、わたしの全身を絡め取ってゆきます。どこか意識の奥のほうで、街の音がすうっと遠ざかってゆく心地がしました。現実が遠のくのと引換えに、心を締めつける、あの甘美な痛みが舞い戻ってくるような。もしも唇があったなら、歓びの溜息を漏らしていたことでしょう。一定のリズムで紅く瞬く、自分の鼓動が速まらないのが不思議なほどでした。

 「眠りを知らぬ恐竜よ、お前は今も世界を愛しつづけているだろうか? 生命のないものが疲れを感じることはあるだろうか? そして恐竜よ、お前は自分が滅びる運命にあることを、その時が決して遠くはないことを知っているのか?」

 そのまま、どれだけの時間が流れたかわかりません。途方もなく長い間だったような気もするし、ほんの数度の瞬きの間だったかもしれません。彼を見つめるうちに、少しずつ、少しずつ、わたしの感情は冷えてゆきました。最初の歓びと引き替えに襲ってきたのは、足先から徐々に麻痺していくような、重苦しい絶望と無力感でした。
 この若者は、あのときの彼ではない。それはわかっていたことです。そしてわたしもいつのまにか、街でいちばん高い建物ではなくなっていました。この一世紀の間に、わたしよりわずか北側の中心街には見上げるような摩天楼が出来上がり、神秘的な青い霞を纏うようにそびえ立っているのでした。
 けれど、わたしを絶望させたのはそんなことではありませんでした。彼の表情には強い意志と知性が宿っていましたが、それもまた、かつての熱くまっすぐなものとは、まったく質の異なるものでした。迷いのない意志、それは、底の知れない怒りと憎悪に突き動かされた真黒い奔流でした。彼が何をしようとしているか悟ったわたしは、意識のどこかが痺れるように麻痺していくのを感じました。

 「ああ、お前はなんて綺麗なんだ、まさに俺達すべてに愛される誇るべき存在だ。お前を失ったこの街を誰が想像できるだろう。人びとを傷つけ、怒りと悲しみの深さをその眼に見せつけるためには、人の身体を傷つけるよりも、きっとお前を突崩すほうが確実なんだ」

 それをしては駄目。
 わたしは必死で、彼にメッセージを伝えようとしました。もしもこの瞬きが信号として伝わるものならば、わたしは一万回でも、「STOP」と繰り返したことでしょう。そのボストンバッグ、中に着替えなど詰まっているわけもない革の旅行鞄。なぜ、そんなものをよりによってこの場所に、わたしの中へ持ち込んだのでしょう。なぜ、一日が希望に満ちているはずの、この時間でなければならないのでしょう。あまりの理不尽に疑問ばかりが駆けめぐりました。何が彼をこんなことに駆り立てたのでしょう。愛していたはずのものからこれほど強い憎しみをぶつけられて、わたしはどうすれば耐えることができるのでしょう?
 一世紀あまり生きていて、傍観者であることを止めたいと思ったのは初めてでした。けれど実際には、どうすることもできません。彼は短くなった煙草を足下に捨て、じり、と踏み消すとそのまま立ち上がりました。ボストンバッグを提げ、彼が建物へ踏み込んできた瞬間、耐え難い圧力を呑み込んだような苦しさに囚われました。やめなさい、必死で訴えたくても、わたしにはどうすることもできないのです。もう何が起こっているか目にすることすらできず、恐ろしい予感が体内に充ちていくのを感じながら、ただ瞬きを繰り返し、天空を仰いでいつか聞いた祈りの言葉を思い出すばかりでした。

 「どうか魂のないただの箱にはならないで。世界の美しさを愛することを忘れないで、此処に集う人々をいつまでも守ってやって」

 空はこんなときでも深く澄み渡り、薄く刷毛で描いたような雲が浮いていました。わたしは祈りました。いま少し時間をください。この空が最後に見る光であるならば、せめて愛するものの残像を描き出し、懺悔するだけの時間を。今まで一人の犠牲も求めず、彼らを守り通してきたというのに、今になって、わたしは彼らを打ち砕く瓦礫になろうとしているのです。こんな残酷な、やりきれない終焉があるとは思ったこともありませんでした。
 そのときでした。かちり、小さな振動が響いたかと思うと、足下に、強い熱と痛みを感じました。わたしは咄嗟に持ちこたえようとしましたが、それはいつかの地震など比べものにならないほど、圧倒的な悪意に満ちた強烈な力でした。ガラスのアトリウムが衝撃を受けてビリビリと震え、やがて砕け散るのを感じました。そこから熱が駆け上がってきて、全身を砕こうとします。やがて息をすることができなくなり、足許が崩れはじめました。気持ちだけは誇り高くあろうとしても、もう崩壊を止めることができないのです。
 ゆっくりと、空が遠くなってゆきました。
 わたしは落ちつつあるのです。天に近かったはずの紅い眼は、急速に地面に引き寄せられてゆきます。それでもわたしは眼を閉じることも、瞬きを止めることもできないのです。ただゆっくりと点滅しながら、空の色を見上げているだけ。
 泣くことができたらと思いました。せめて涙を流すことができたら、少しでもこの痛みを癒し、熱を潰えさせることができたかもしれない。そんなもの、これほどの圧倒的な憎しみの前では、かすかな慰みにもならないのでしょうけれど、それでも心が焼かれる苦しみくらいは薄らいだかもしれません。
 そして、とうとうわたしの両眼は地面に降り立ちました。黒い煙のせいか、もう瞬く力すら残っていないせいか、すべてが次第に暗くなっていきます。
 わたしは天を仰ぐことをあきらめ、地下に思いを馳せました。そのとき、懐かしいものが映りました。愛する人が埋めてくれた一対の靴。地中に埋まった鉄骨までがえぐり出された結果、地上に放り出されたものなのでしょう。
 ああ、ようやく会えた。わたしは安堵の息を漏らしたような気がします。長いこと身体を押さえつけていた呪縛が解け、わたしは手を、そう手を伸ばしました。驚いて目の前にかざすと、埃をかぶって色の失せた、骨ばった手のひらが映りました。下を見ると、同じ色をした、ややのっぺりとした裸足。鏡がないせいで、自分が男か女かも見極めることはできません。けれどわたしはようやく、あれほど焦がれていた人間の手脚を与えられ、動くことができるようになったのです。
 わたしは注意深く右足を出し、そして左足を出しました。よろめきながら手を伸ばし、古びた靴を掴みました。足を入れるとそれは吸い付くように、傷つき易い足裏の皮膚を守ってくれるのです。
 わたしは埃に喘ぎながら、瓦礫を踏みしめて歩きはじめました。一歩ずつ、ゆっくりと。愛するものの処へ。わたしを待つものの処へ。

 「XXX年X月X日午前、街の中心街にあるビルディングが爆破され、倒壊した。地上22階建てのビルディングは20世紀初頭の竣工時には街で最も高い建物として知られ、以来街のシンボルとして人々に愛されていた。
 爆破が起こった時間には数百人の人間が建物内にいたが、彼等は全員屋外に避難しており奇跡的に死者は出なかった。現場に居合わせた人の話によると、爆破の数分前、何の前触れもなく建物中の警報機が一斉に鳴り響き、かつて誤作動を起こす事など一度も無かったスプリンクラーが水を噴いたという。また、それとほぼ同時にオフィスに人影が飛び込んできて、急いで避難するように促したという談話もある。その人物の声を聴き、目にしたという人は多くいるが、それが一体誰であったのかは、年齢も、性別すらも判然としない。またその人が、22階の建物に入居するすべてのオフィスに、どうやってほとんど同時に現れることができたのかも、未だにわかっていない。
 しかし私たちはその人物に感謝する。多くの同朋の命を救ったその人を、我々は仲間として愛し、心の中に受け入れるだろう。」

 眠らない恐竜の願いは、最後にようやく叶えられたのです。[fin]

茶石文緒
WRITER 茶石文緒
廃墟が好きです。煌びやかなショッピングモールやタワーマンションが、100年経って廃墟になるのが今から楽しみです。
URL:ナイトクラブ

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