本文目次など
one hundred years

男たちと人妻と犬と呪われた百年

岩井とおる

深く考えないで欲しい後日談

「あのね、ほんとはね」
とチリは受話器の向こうで唐突に言った。
「雄介って答えたのはね」
チリはそこで少し言いよどんだ。もう一ヶ月も前の話だ、と俺はすぐに気が付いた。
「雄介が百年生きそうとかいう陳腐な理由じゃないんだよ。えっとね、あの時は『百年=雄介!』っていう図式がいきなり頭ん中に浮かんでそれでそう答えちゃっただけなの。なんていうかあの時の雄介『百年』っていう顔してたんだもん。だからね、理由なんかほんとはなかったんだよ」

0.俺(山岸雄介・20歳W大学文学部二年)の場合

 夏休みの最後の日、俺はふと父親の本棚で「百年の孤独」を見て、前期の講義の内容を思い出した。ナラティブストラクチャーについての講義で、イントロダクションとして講師はこう言った。
「百年と聞いてなにを連想しますか?」
と。学生が連想する暇も与えず彼は言った。
「文学部の学生であれば即座に「百年の孤独」を思い出すようになってください。この小説は、それほどまでに素晴らしい小説です。まあ、焼酎の「百年の孤独」を思い出す人もいるかもしれませんがね」

 百年と聞いてなにを連想するか。それは相当に難しい問題だった。父親の本棚を前にして、俺は考え続けた。百年、百年…俺の思考はいくつかのトンネルを乗り換え、そして遂に辿りついた。
 百年といえば徒競走だ!
 この明らかに突拍子もない閃きは俺を喜ばせた。百年が徒競走、まさにコペルニクス的転換ではないか。あるいはひょっとすると、人はみんなコペルニクスになれるのかもしれない。つまり仮に全ての日本人に「百年とはなにか?」と尋ねたなら、(答えは重複するにせよ)一億二千万通りの思考回路が生まれるのではないだろうか。当たり前といえば当たり前だ、でもそれを確かめるのはなんだかすごくわくわくすることだった。一億二千万人に聞くことは出来ない、でも友達に聞いて回ることはできる。その答えから個性が見える。画一化したといわれる現代に百年が楔を打ち込んでくれるに違いない。
 そして、俺の「徒競走」という答えはその中でも燦然と輝く個性たりえるに違いない。

 ところでその「百年の孤独」をどうしたかといえば、すばらしい小説だから読まないわけにいかない、ついつい引き込まれてしまって気がついたら朝になっていて危うく授業に遅れるところだった―などということはあるはずもなく、もちろん読まなかった。かつて読んだこともない。大体マンガ以外の活字なんて読めたものではない。文学部には確かに文学少年少女もいる(そういえば最近うちの学校で芥川賞なんかとったやつがいた気がする)が、少なくとも俺の周りはそんな柄ではない。いや、みんな文章を書くことは書く。芥川賞なんてすぐ取れると思っている。でも本は読まない。「百年の孤独」も「雪国」も「羅生門」も「インストール」も「蛇に背中」(だっけなんだっけ?)も当然読んだことはないが、それでも本気を出せば賞なんて簡単にとれると思っている。俺も当然、例外ではない。「21世紀少年」なら面白いと思う。手塚治虫賞は浦沢直樹に譲るが、俺はノーベル文学賞を獲る男だ。

1. A(加藤綱紀・20歳W大学文学部二年)の場合

 チャイムとともに後期最初の授業、もとい睡眠時間が終わり、教室で久しぶりにAと会話をした。AはイニシャルのAではない。Aは中一以来の親友なのだが、中一の一学期、彼がオールAの成績をとって以来Aと呼ばれるようになった。俺が彼のことをA、Aと呼んでいたら、大学のクラスの女の子たちまでが「ねええーくん」とか呼ぶようになって、結局彼は完全に自分の名前を失ったのだった。しかし彼はそんな自分の匿名性など意に介さぬようで、「えーくんなのにCばっかりだよー」とか寒いことを嬉々としてしゃべっている。そんなAの今日の一言目。
「おいお前髪切った?」
 夏休み中に髪など一度も切ったことはない。このモラトリアム期間中にAはすっかりタモリに感化されてしまったのだろうか。そういえば確かにサングラスをかけている。タモリというよりは新庄だが。
 ああ切った切った。
「だよな、ずいぶんオシャレになったもんな」
 ぶっころすぞ。
「麻雀しようぜ」
 ギャンブラーは髪きらねーんだよ。
「お前はただの引きこもりだろうが」

 麻雀は長いブランクのわりにやたらと調子が良く、一万近く勝ったところでお開きになった。早速帰り際にAに聞いてみた。百年って聞いてなにを連想する?と。記念すべき最初の回答者に選ばれたAはしばらく悩んだあげくこう言った。
「徒競走だ」
 徒競走?
「そう、徒競走」
 徒競走ってあのよーいどん!ってやつだよね?
「うん」
 ふーん
「いやちょっと待て。聞いておいてふーんはないだろ。正直結構想像付かないような連想だったろ?自信作なんだぞ?理由とか聞かないのかよ」
 うんいいや。
「おい、ちょっと待てよ。俺の話聞けよ」
 すげえ面白い?
「いや、すげえ面白いってほどじゃねーけどさ」
 あ、じゃあいいや俺そろそろ行かないとデート遅れるし。また明日な。
「お、おい!」
 あの啓示は一体なんだったのだ。現代の若者が没個性的だ、というのは本当らしい。飛び乗ろうとした扉に拒まれて、俺は思いきり電車を蹴りつけた。

2.チリ(山室千里・20歳J医科大学一年)の場合

 急がなければ間に合わない、というのはウソだったが、デートなのは本当だ。彼女とは付き合ってそろそろ四年半になる。長いほうかもしれない。高校の頃からずっと付き合ってるカップルなんて、そうそういるものではない。田舎のヤンキーとかにならいっぱいいるかもしれないが、ここは東京だ。しかも高学歴だ。

 とりあえず、俺の古くからの親友であるAだからこそ俺と同じ回答に辿り着けたのであって俺(たち)は決して没個性ではない、と必死に自分に言い聞かせて少し立ち直った。こうなったらそれを証明するために聞き続けるしかない。彼女はなんと答えるだろう。間違っても「雄介」とか答えるような彼女ではない。「百年一緒にいたいから」とか言うような女だったら、絶対に付き合わない。百年という言葉だけでこれだけ人間がわかる。すごい発見だ。この発見で、ノーベル平和賞はもらえないのだろうか。
 ありきたりなことを言ったら罵倒してやろう、と思っていたがさすがにそれはできない。そんなことをするくらいなら、まず始めに自分自身のことをはったおさなければならないではないか。

 というわけで俺はいまホテルのベッドの中に彼女ともぐりこんでいる。彼女とのセックスだったら百年やってもいいと思う―若いままなら。
 なあ、百年って聞いたらなにを想像する?
「えーなんだろ。雄介?」
 おいそれはないだろお前、いくらなんでも期待を裏切りすぎだ。お前だけはそんなこと言わないだろうってついさっき思ったばかりなのに―という内心はさすがに口に出せず(基本的には親切な人間なのだ)、なんで?と聞いてみる。
「えーなんでって言われても特に理由はないけど」
 さすがは俺の彼女だ、シュールすぎる。前言を撤回して乳首をつねってみる。
「ちょっともう…。なんか雄介って百年生きそうじゃない?」
 はあ、俺はあれか「百万年生きた猫」みたいなやつなのか?「百年生きた雄介」みたいな絵本になるのか。
「あはは、雄介わたしの友達と同じ間違いしてる。百万年生きた猫じゃないわよ。『一万回生きた猫』でしょ?なんでそんな間違いするのかしら。しかも二人ともそろって」
 うるさいな、よく覚えてなかったんだよ。
「でもその絵本いいわ。欲しいな。読めないのが残念だけど」
 なんで読めないの?
「美人薄命だから」
 おー強気。
「ねえ?」
 なに?
「もう一回しよう?」
 お前さ、百年セックスしたい?
「若いままならね」
 そう言って彼女は俺の唇を塞いだ。それでも俺たちはいつまでも若いままじゃいられない。二回目はなかなかたたなくて、いれるまでにずいぶん手間取った。

3.サムタケ(本名不詳・自称25歳主婦)の場合

 チリとのデートから帰ってすぐにパソコンを立ち上げた。もうすっかりネット廃人だ。インターネットは怖い。日経のコラムに、学校ではパソコンの使い方を教える以前にまずパソコンの電源の切り方を教えるべきだ、と書いてあったが非常に含蓄のある言葉だ。俺も教えてほしかった、というか今でも教えて欲しい。どうやったらこのオンライン地獄から解放されるのだろう。麻薬のようなものだ。パソコンの前に座っていると眠くならない。
 そのコラムを書いていたのは仏文学者だったが、彼にも電源の切り方はわからないようだった。仏文学者にわからないことが、学校の教師にわかるとも思えない。
 サムタケがオンラインだったので、俺もオンラインにあがり、「取り込み中」にしてからサムタケに話しかけた。サムタケは、ちなみに言っておくと女だ。なぜサムタケなのかは何度聞いても教えてくれない。苗字にしてはあまりに奇妙だし、まさかサム=タケダとか、サムライ・タケシの略でもないだろう。

カズ:ねえ、百年って言葉からなに連想する?
サムタケ:ねえ、100年って聞いてなに思いつく?

 いやちょっと待て、そこがかぶるのはおかしいだろ。いいか、答えがかぶるまではまだ許せる。質問がかぶるとか、ありえねーじゃねーか。お前だけは確固たる個性を持つ人物だと信じていたのに―とディスプレイに向かって悪態をついてみる。
 ネットのいいところは、独り言を言おうが変な顔をしようが相手にばれないことだ。オナニーしながらロシア文学史について激論を交わしたって誰にもわからない。彼女と浮気相手と同時に会話をしたってわからない。すごいことだ。そういう意味で、僕らはインターネットという機器を得てついに世界の複数の箇所に同時存在する方法を獲得したのだ。これって、本当に結構画期的なことだと思う。名前がいっぱいありすぎてどれを使ったらいいかわからなくなるというのは、RPGのセーブデータをいっぱい作りすぎて今日はどれを進めるか迷うのに似ている。気に入らなかったらリセット!便利な人生になった。
 というわけで、なに食わぬ顔をして(ひどく顔をゆがめながら)

カズ:ぱくってんじゃねーよ!

と発言してみる。

サムタケ:なーんだカズもサエキさんから聞いたの?
カズ:なにを?
サムタケ:ポリオの企画。

 ポリオというのはサエキさんという人が中心になって作っている海のものとも山のものとの知れないWeb雑誌だ。しかしポリオ―すごいネーミングだ。
医学部の友達に話したら、「ああ脊髄の灰白質を侵す炎症過程?」とか言われた。そのまるで医学辞典みたいな答え方にもびっくりだが(だいたい俺の友達はこんな変なやつばっかりだ。今度こいつにも百年について聞いてみよう)、そんな名前にしたサエキさんとかいう人にもびっくりだ。俺はなにか書ける場所があればそれでいいから、雑誌名なんてなんでもいいのだが。
 俺はそこで小説家の真似事のようなことをやっている。しかし残念ながら、俺はその雑誌のために全力を注いだことはない。題名からしても、執筆者の一人である俺にしてもそんな調子だから、総体としてもタカが知れている。が、それはそれで意外と面白いから不思議なものだ。そしてもっと面白いのは、気がついたらなんだか似たような人が集まっていることだ。いわゆる類友ってやつだろう。

カズ:ポリオなんてかんけーねーよ。俺はいま百年という言葉から連想されるイメージを若者から収集することで現代の若者の意識を調査してるんだよ!
サムタケ:な、なに?
カズ:つまり、現代を写すにはフィルターが必要だろ?手始めにそんなとこから始めてみたんだよ。百年っていうのはただの思い付きだ。ポリオは知らん。
サムタケ:あのね、ポリオの今度の企画ね、「100年」なの。
カズ:うわーできすぎだな。
サムタケ:それでね、サエキさんがね、一人最低5人に「100年」から連想されるものを聞いて報告しろって。あとその人の職業と年代とか。
カズ:それならいまのところ「徒競走」「徒競走」「雄介」だ。
サムタケ:???
カズ:俺(W大学文学部二年)が徒競走で、同じくW大学文学部二年が徒競走で、んでもってJ医科大学一年の女が雄介だ。
サムタケ:それが100年?
カズ:悪いか?理由は答えん。
サムタケ:いや別に悪くはないけど…。雄介ってなに?
カズ:ああ、俺の本名。
サムタケ:なるほどねー。100年一緒にいたいって?
カズ:違う、断じて違う。
サムタケ:じゃあなによ?
カズ:百年生きそうだってさ。
サムタケ:ふーん
カズ:で、人妻サムタケはどうなのよ?
サムタケ:えっとね、古時計。
カズ:ふつーだな。
サムタケ:あなたたちが変すぎよ。
カズ:まあ、そうとも言うが。しかしそんなのは主観的な問題に過ぎん。というか俺は友達とかぶって非常にショックだった。
サムタケ:いわゆる類友ってやつね。
カズ:そうらしいな。俺はもう完全に自己同一性障害だよ。
サムタケ:そこまで言わなくても。
サムタケ:あ!
カズ:なに?
サムタケ:だんな帰ってきたからまたね(^o^)
カズ:あーわかった、またね〜!

 人妻という人種はなんでこうも暇なのだろうか。俺も生まれ変わったら人妻になりたい。人妻はノーベル文学賞に一番近い職業な気がする。そういえばサムタケも、ノーベル文学賞が獲りたいとか言っていた。作家という職業は実に不思議だ。誰にだって作家にならなれる、という夢を抱かせる。俺にしても、Aにしても、サムタケにしても。
 しかし作家になるほうが、俺が人妻になるよりは遥かに現実味がある。そういう意味では、そこまでバカげた目標とはいえないかもしれない。いくら類が友を呼ぶ、朱に交われば赤くなると言っても生まれ変わらない限り人妻にはなれない。人妻に交わったら―ただの浮気だ。赤くはなるかもしれない。

4.ドクター(石井透・20歳K大学医学部二年)の場合

 せっかく携帯も直したことなので「ああ脊髄の灰白質を侵す炎症過程?」に電話してみることにした。
 おい久しぶりだな。突然だけど…
「うん?」
 百年ってきいてなにを連想する?
「そりゃおまえ…マルケスの『百年の孤独』だろ」
 おまえもつまんねー人間だな。
「は?」
 いや、なんでもねー。ていうかさ、お前「井」って呼ばれたらどう思う?
「イ?なんかお前今日意味わかんねーぞ。こっちは解剖で忙しいんだ」
 でもお前、マルケスっていうのは「井」っていうことだぞ。マルケスじゃなくてガルシア=マルケスだ。成じゃなくて成田だ。おっじゃなくておっぱいだ。
「ガルシアって名前じゃねーの?」
 いや違う。ガルシア=マルケスで苗字だ。お前ナラティブ・ストラクチャーの旗手でありノーベル文学賞受賞者でもある偉大な人物の名前も知らないとは何事だ。
「そんなすごいのか?何冊か読んだけど、正直よくわからんかった」
 いや、あれはすごいよ(読んだことないが)。まあ医学部にはわからないだろうけどな。
「ふーん、まあ文学部は頑張ってくれ。あの蹴りたい…なんだっけピアスだっけ?なんかちげーなまあいいや、そいつもお前の学校なんだろ?」
 あーあのグラドルね。
「そんなこと言ったってお前、お前はグラドルにも勝てない身分じゃねーか。お前が前どっかのちゃちな賞に出した時の講評教えてやろうか?」
 いいよもう忘れた。
「俺は明日解剖の試験だから勉強するわ、またな」

 俺はもちろん、携帯を床に投げつけた。
 忘れるはずがない。あの審査員は確かにこう書いたのだ。
 「ストーリーはよくまとまっている。文章もこなれている。だが、圧倒的にオリジナリティが欠如している」

5.イチロー(田中一郎・19歳K大学二年)の場合

 ふて寝していると、床の携帯がすごい音をたててふるえた。あれだけ叩きつけても案外壊れないものだ。酔っていたから覚えていないが、壊した時はよほどの衝撃だったのだろう。
 電話に出てみると、イチローだった。イチローは京都の名門国立大学であるK大学に通っている。いちいち思い立たなくても、そこは京都だ。ちなみに同じK大学でもさっきのドクターは我らがW大学の敵(ということになっている)のK大学だ。
 開口一番、
「なあ今日ウェディングドレス着せてやっちゃったよ」
 は?
「あのな俺最近人妻と浮気してんだよ」
 ああ…
「それでもうすぐそいつが結婚式だって言うからな、ウェディングドレス着せてやったんだよ」
 それ言うために電話してきたのか?
「だってすごくねーか?ウェディングドレス」
 あ、ああ。彼女とはうまくやってんのか?
「そりゃねー。ばれるわけないって。でもさ、やっぱ人妻より彼女のほうがいいな」
 そりゃそうだろ。
「でもやっぱ、ウェディングドレス着ると違うな」
 違う?
「ムラっと来るっていうより、なんか結婚したくなったもん」
 そういうもんかもな。
「お前結婚しないの?」
 うーん、正直三十くらいまでは一人がいいかな。
「そうか、まあ正直俺もそうだな」
 なあ百年って聞いてなに連想する?
「それ、流行ってんの?」
 え?
「今日人妻にもそれ聞かれたぞ」
 なんて?
「なんつったかな、よくわかんないけどなんかのWeb雑誌で百年がどうのとかいう特集をやってるんだってさ。ほらあの人妻、小説書くから」
 小説?
「そう、ノーベル賞獲るんだとかバカなこと言ってるよ」
 ちょ、ちょっと待て。その人妻の名前は?
「え、いいじゃん名前なんて」
 無駄に照れてないで教えてくれ、大事なことなんだ。
「人妻の名前が?大事?」
 いいから頼むよ。
「シズカだよ」
 苗字は?
「しらない。人妻の苗字なんて興味ないよ。ほかの男の苗字だろ?」
 そりゃそうか、でさあその人妻、百年からなに連想するって言ってた?
「古時計。俺も古時計だったよ。正直それしか思い浮かばなくてさ。ま、同じもの思いつくっていうのはなんかいいよな」
 よくねえよ!
「なに怒ってんだ?」
 いや、ごめんわりい。ちょっと色々あるんだよこっちにも。
「そうか、ああそういえばそのWeb雑誌の名前思い出した!」
 マジで?
「momentaryって言ってたぞ。あいつ、編集もやってんだ」
 ポリオじゃなくて?
「なんだよポリオって。脊髄の炎症だかなんだかをタイトルにするやつなんかいるかよ。momentaryだよ。刹那的って意味だろ?正直このタイトルも好きになれないけどな。大体、momentaryなのにテーマが百年って意味わかんねーよ」
 ポリオじゃないんだな?
「うん絶対違う」
 ならよかった。またな。
「おいもう切るのかよ?」

 サムタケが、オーダーメイドのウェディングドレスを作ったとか嬉々として喋っていたのを思い出した。雑誌名がポリオでなくて、本当に良かった。まあ、名前が「シズカ」ってところからしてなんとなく違うとは思ったのだが。まがりなりにも「シズカ」と名づけられたなら、あそこまでうるさくはなれないだろう。
 しかし、途中からその人妻がサムタケであってほしい、という思いが芽生えたのは否定できない。大体、二人の人妻が結婚式を控えながら、同じ京都で、同じ百年をテーマに、しかも同じ「古時計」を連想しながら、でも違う雑誌を作っているなんて考えるだけで気が滅入る。俺はいますぐサムタケに知らせてやりたかった。お前がいま必死こいて作っているものは、ほかのやつが作っているものとまるっきり同じようなものなんだぞ、と。けれどもサムタケのメッセはもうオフラインになっていた。
 もう深夜の三時、夜更かし組が多いネットの世界といえどもさすがに夜だ。オフラインに人がずらりと並んでいる。この名前が増えれば増えるほど、友達が増えていくような気がしたものだった。そんな考えが間違いだと気付いたのは、いつのことだっただろう。いつしか俺は、パソコンをつけていても常にオフラインにしておくようになっていた。サムタケがあがっていて気分が乗るときだけ、取り込み中にしてサムタケに話しかける。
 サムタケとなら、いくら話していても飽きない。それは、サムタケが特別ななにかを持っているからなんだと思う。ヒトとは違うなにか―たとえばそれは、ノーベル賞を獲るのに最も必要とされるものだ。
 寝静まった京都で旦那の隣で布団にくるまっている、二人の人妻のことを思った。会ったことも声を聞いたこともない二人の女。もしこの二人が出会ったら、どんな会話を交わすのだろう。自分と同じようなことをして、同じことを目指している相手を見て、なにを感じるのだろう。もし俺が彼女たちの片方だったら、こう思うだろう。
 ああ私たちにはノーベル賞は獲れないんだわ、と。

6.ヒトミ(本名不詳・27歳主婦)の場合

 次の日、学校を早く抜けてヒトミと渋谷のラブホに行った。二時から八時のサービスタイムだ。今日も旦那は遅いからゆっくりできる、とヒトミは言う。確かに俺も、ヒトミの苗字を知らない。名前はたぶん、ヒトミだと思う。しかし本当に彼女がヒトミであるかなんて、一体誰にわかるというのだ。それに名前になんて興味はない。でもヒトミというと、黒木瞳を連想させてちょっと卑猥なので気に入っている。

 俺の友達もさ、人妻と浮気してるんだってさ。
「ふうん?」
 ウェディングドレス着てやったんだって。
「着せてみたい?」
 いや、いいや。
「なんで?」
 ねえ。
「うん?」
 もう会うのこれで最後にしようか。
「そうね」

 それが、俺たちの終わりだった。浮気の終わりに特別な理由なんてない。そこにはただ「飽き」があるだけだ。「人妻」という言葉と成熟した女性の魅力、若い男の可愛さと体力、これだけが学生と主婦を結びつけるもので、そんなものには俺たちはすぐ飽きる。イチローも、もうすぐしたら飽きるだろう。しかし俺も人妻と浮気していることをイチローに言わなかったのは、俺なりの親切心だ。自分だけがこんなスリリングなことをしている、と思うからこそ人妻との浮気は成り立つ。誰でもやっている、と思ってしまったら、続きはない。
 人妻なら絶対子供産む前がいいよ、とAは以前言っていた。それがわかる頃にはもう人妻になんか興味なくなると思うけどな、と彼は付け加えた。Aの言っていたことが、いまならわかる。確かに人妻なら子供を産む前の方がいいし、それが分かる頃には人妻になんか飽きている。
 お前なんだかすげえな、と言うとAはつぶやいた。最初はすごい発見だと思ったけどあとで思いなおしたよ、こんなのは誰もが通ってきた道なんだって。
 「誰もが」というのはいくらなんでも言いすぎだと思う。いくらモラルが崩壊しつつある日本とはいえ、みんながみんな人妻と浮気をするわけではない。しかしAの言いたいことはよくわかる。人妻のことはあくまで代理戦争なのだ。
 俺たちが独自に発見したと思うことは、もうもっと年上の誰もが知っていることなのだ。奇抜な発想だと思うことは、「よくある」変わった考え方でしかないのだ。Aの目はそう語っていた。

 あんなに夢中になったゲームやマンガが、とたんに色あせて見える瞬間がある。そんな体験は子供の時だけだろうと思っていた。しかしそんなことはない。あらゆることに、その瞬間は潜んでいる。相手が人間だろうと同じことだ。面白い友達にも、可愛い女の子にも、その瞬間はやってくる。ワンパターンな会話を耳障りに感じる。少しだけ目が垂れているのが気になるようになる。そうなってしまえば大抵の場合、もうおしまいだ。
 その瞬間があってなお飽きない相手がいるとすれば、それが愛なのかもしれない、と俺は思う。だから俺は何度となく浮気を繰り返しながらもチリといるのだろう。
 ひょっとしたら人妻との浮気だけでなく、もう二度と誰とも浮気自体をしないかもしれない、とヒトミと道玄坂を下りながら漠然と思った。
 
圧倒的にオリジナリティが欠如している。
 浮気は、典型的な劣化コピーだ。そこそこの快感と、そこそこの悩み。俺にはもう中途半端なものは必要ない。なにをすべきかはわからないが、もっと他になにかしなければならないことがある。

 百年って聞いたらなにを連想する?
と俺は別れ際、最後に聞いてみた。
 「うーん、古時計?」
と彼女は答えた。俺は三文節の言葉を心の中で唱えた。
 圧倒的にさ、オリジナリティがね、欠如しているよ。

7.ジョン(ジョン・年齢不詳・無職)の場合

 次の日もまた学校を早く抜けた。デートではない。Aと一緒だ。
 晴れたから多摩川にでも行こう、そうAが言いだした。俺たちは早速、サークルの部室にしまいこまれているフリスビーを手に二子玉川に向かった。ちなみに俺とAの入っているサークルは当然予想されるようにテニスサークルだが、これまた当然予想されるようにもう半年以上テニスなんかやっていない。大体、あんなスポーツのどこが楽しいのだろう。球は、思いっきりひっぱたくべきものだと信じている。

 俺とAが多摩川に行くようになったのは高校の一年の時だ。あの頃は毎日のようにドクターと三人でつるんでいて、急にAがフリスビーをやりたいと言い出したものだから、ドクターが二子玉川に俺たちを連れてきた。ドクターは、その先にある「たまプラーザ」とかいうおかしな名前の駅に住んでいる。平仮名とカタカナを組み合わせようと思ったセンスに脱帽だ。伸ばし棒の存在意義もよくわからない。ドクターは、なんか岡本太郎が名づけたって噂なんだけど、などと言っていたがそれが本当だとしたら結構すごいことなのかもしれない。それにしては、爆発具合がいまいちだ。
 それはさておき、とにかく俺とAはすっかりその場所が気に入ってしまい、天気がいいと三人で多摩川に来るようになった。フリスビーをやったり、サッカーをやったり、花火を打ち上げたり、釣りをしてみたり、果ては泳いでみたり。大学になってもたまに三人を中心に女の子を交えてバーベキューをやったりしているが、なにせドクターが忙しいので、大抵はこうやって二人で来る。
 フリスビーを終えて昼寝をすると、温かな風が体の上を吹き抜ける。九月の終わり、一番いい季節だ。目を開けてまだ陽の高い空を遠慮がちに見ると、あまりの広さに圧倒されることがある。リオデジャネイロにまで、この空は続いているのだ。そう思ってもう一度世の中を見渡すと、不思議と全然違って見えてくる。空間的な広がりだけでなく、人間的な広がり、時間的な広がりがやたらと目に付くようになる。たとえば古びたタバコ屋のおばあさんは昔はもてたのだろうか、昔はあの銭湯に多くの人が集まったのだろうか、河原で一人本を読んでいる少年は学校ではどんな存在なのだろうか、お母さんに連れられて歩いているあの子は将来すごいもてるようになるんじゃないだろうか、とかそういうことだ。そしてそんな人たちが、続く限りのこの空の下にいる。

 しかし、この日は残念ながら空を見上げてもそんな気分にはなれなかった。いたるところにあらゆる人のコピーがいるような気がする。俺はAに言った。
「なあ、人ってみんな同じようなことしか考えられずに同じようなことしかできずに生きているもんなんだな」
「ま、そりゃみんな同じ人だからな。しょうがないだろ」
 そうか、そういうもんか?
「そういうもんだろ」
 確かにAの言うとおりなのかもしれない。俺が自分や人に個性を期待しすぎているのかもしれない。人は人でそれ以上でもそれ以下でもないのだろうか。確かに人は犬とは随分違う。ちょっと小便してくるわ、そう言って俺は茂みへと向かった。

 立小便は好きではないが、河原でするのは例外だ。世界に向かって放尿をするような開放感がある。世界中が俺の縄張り、みたいな感じだろうか。それにこういう場所で一瞬無防備になるというのは、守られているように強く感じられる。いい気持ちで小便をしていると、視界の右端に犬が見えた。犬は好きではないので種類はわからない。茶色のいい毛並みをした、わりと大きめな犬である。飼い犬のようだが放してある。河原ではよくみる光景だ。
 しかし次の瞬間、犬は片足をあげた。俺は慌てて小便をやめてしゃがみこみ、三〜四個の石を上に放り投げていた。切りきれなかった小便が、パンツやスニーカーに少しかかった。石は犬のほぼ真上から落下し、そのうちの一つが命中した。犬は小便をやめて飛びのき、上に向かってほえた。残念ながら襲撃者は上にはいない。上を向いて時には飛び上がりながらほえ続けるバカな犬を尻目に、俺はAのところに戻った。おい、人も犬も変わらないじゃないか、と言いながら。Aはのんきな顔で、まあ同じ哺乳類だからな、と言った。お前はノー天気でいいなあ、と俺が言うと、お前が考えすぎなんだよ、とAは言い、目を閉じて帽子を顔に載せてふたたび昼寝を始めた。Aはわがもの顔に使っているがこれは俺の帽子だ。原宿のショップで限定百個売っていたコラボものを並んで買ってきた。こいつは日よけ代わりに使っているが貴重なものだ。もう少し丁寧に扱って欲しいものだと思う。俺には日よけは必要ない。目を閉じると太陽がまぶたを焼き、目の奥が赤くなる感覚がたまらなく好きだ。

 寝転がって目をつぶった瞬間、頭の後ろで
「おい、お前」
と男の声がした。目を開けると、同じくらいの年の男が俺の帽子をかぶってのぞきこんでいる。なんで俺の帽子を、と言いかけてAを見ると、Aは俺の帽子を手に起き上がったところだった。こんなところで同じ帽子をかぶっているやつに出くわすなんて、限定物の意味が全くない。男の形相がただごとではなかったので、俺は慌てて立ち上がって言った。
 なんだ?
「なんだ、じゃないだろ。俺の犬に石ぶつけただろ。謝れ」
 悪い、すまなかった。
「謝ればいいってもんじゃないだろ!」
 じゃあどうすればいいんだ?
「弁償しろ」
 別に怪我はしてないだろ、弁償する義務はない。
「義務とかそういう問題じゃないだろ。一万でいい。金をだせ」
 いやだ。
 意気がっているが、大した男ではない。体格は細長く、俺と大差ない。Aはずっとラグビーをやっていた屈強な男だから、けんかでは負けないはずだ。謝れと言われたから謝ったのにあの言い方はない。俺だって悪いとは思っているが、こんな態度でこられると意地になってしまう。Aを横目で見ると、全く動じていない様子だ。俺の帽子をやや斜めにかぶりなおしている。
「いやならしょうがないな」
と男は言った。
「これから10数えるから、その間に逃げろ。ジョンにお前らの匂いを覚えさせた。10経ったらこいつにお前らを追わせる。目には目を、歯には歯を、だ。せいぜい逃げまどえ。いいか、いまからだ。9、8…」
 ハンムラビとは随分野蛮だな、と言おうとしたのをAが視線でとめた。こいつはちょっとやばい、そうAの目は言っている。俺たちは川に向かって一目散に走り出した。
 ジョンだってよ、ひどい名前だな。お前は外人かって話だ。
「軽口叩いてる暇あったら必死に走れ。置いてくぞ」
 コンクリートの斜面を一気に下り終えて後ろを見ると、犬がちょうど駆け出し始めたところだった。川はもう目の前だ。これなら逃げきれる。俺たちは目を見合わせてうなずき、競走だ!と叫んで川へと入っていった。大学に入ってまでこんなバカをやるはめになるとは思っても見なかった。裾もまくらず、カバンをもって走っているのがやや危機感を感じさせるが。
 多摩川は大体の場所は深く腰までは簡単に使ってしまうが、ごくたまに膝までくらいしかない浅いところがある。俺たちは昔から遊んでいるからそれを知り尽くしているが、まさかあの犬にはわかるまい。匂いをたどってくるにも流れがかき消してくれるだろう。
 川の水は冷たい。俺たちは声をあげながら走り続けた。犬も追ってくるが、犬かきでは俺たちにはおいつかない。俺がAより一歩遅れてゴールテープを切った時、犬は三分の二くらいまで来てはいたが、深みにはまってだいぶ下流に流されていた。こう見えても流れが強いところは強いのだ。下流に流されるばかりで一向に岸に近づける様子のない犬を見て俺たちは大きな声で笑った。Aは一心不乱に石をなげつけている。水切りで当てるつもりらしい。くそ、三回しか跳ねない、などと騒いでいる。
 俺はそれをしばらく楽しんで見ていたが、もうやめてやれよ、と言ってAのかぶっている帽子をとり、犬の方にむかってなげた。帽子は犬の五メートルくらい上流にうまいこと着水し、ぷかぷかと流れていった。

 とりあえず乾かしにいかなきゃな、と俺は言い二人で二子新地に向かって歩き出した。Aは感慨深そうに
「昔よくお前とここで走って競争したよなあ」
と言った。なにセンチになってんだよ、と俺は言ったが、もちろん俺も同じことを考えていた。ドクターは俺たちよりずっと遅かったので、いつもいつも俺とAが川岸から反対の川岸までデッドヒートを繰り広げていた。しかしなぜか必ず僅差で負け、勝ったことはない。
 くそ、今回も負けちゃったなあ、と俺が言うと、
「お前には百年たっても負けないよ」
とAは笑った。[fin]

 

 ※この小説はフィクションです。登場する人物、団体は全て架空のものであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません。たぶん。

岩井とおる
WRITER 岩井とおる
おかげさまで成人しました。
子供が女の子だったら名前は唯にします。男の子の名前が決まりません。
URL:夜が明けるまで僕はここに座っている

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