僕が風呂上りに首にタオルを巻いたまま冷蔵庫を開け缶ビールを取り、リビングで普遍的且つ通俗的な風呂上りの男性を演出している最中、彼女は奥の部屋のソファーに横になり、バラエティー番組を見ながら携帯片手に粗雑的且つ低俗的な会話をしていた。
彼女の生理が止まった時と長電話に遭遇した時、男は共通した心境を抱く。諦めるしかない。時間と電話代と周囲の気遣いという概念が欠如したその無意味な能弁は、立て板に水の如く滞りなく続く。こんな平凡な生活に、更に逃れようのない倦怠に浸っているような日常に大した用件など発生するはずないのに、長時間会話が成り立つというのはなかなか侮れない能力のような気もするし、私縄跳びで二重飛び1時間できますみたいなどうでもいい技術のような気もする。
電話という媒介を通した男にとっては無意味とも思える女性同士の物語の交換。そこには劇的な展開なんて、驚愕の結末なんて存在しなくてもいい。なぜ貴女は喋り続けるの? そこに携帯電話があるから。無料通話分は繰り越しの対象外だから。指定割を併用すれば指定した人への通話料が60%OFFだから。僕は奥の部屋へは行かず、リビングのテーブルに腰掛け、缶ビール片手に無意味で無価値な会話に聞くともなく耳を澄ませる。
「マジでー? うっそー。そうなんだー。私もビックリしてるもーん」
この歳の女性は箸が転がっても笑うが、それと同様に何にだって驚く。何に対しても驚愕することで感受性が豊かだとでも表現しようとしているのか。それとも陳腐な感情表現で相手と共感しようとしているのか。
「えー。それってチョームカつかない? ふざけんなーみたいな」
何事もはじめにことばあり。親しき仲にも礼儀あり。人と会話するときは適度な緊張感を持ちましょう。耳障りなアクセントはやめましょう。僕は彼女が田舎から東京へ出てきて変な言葉に感化されてしまったことがチョームカつく。何より、ゲラゲラキャッキャと甚だ品性が欠けている彼女の笑い方がバリうざいんだけど(-'д-)y-~
「ワハハ。サイテー。なにそれー。バレバレー」
笑。最低。何其れ。露見。彼女の言葉を意味もなく文字にしてみる。全くもって無意味! 不可解! ビール超うめぇ!
「でもほんとバレバレだよねー。指定着メロとか設定しちゃったりして。バカじゃーん」
いったい何の話をしているんだ。脈絡の無い会話は、聞いていて楽しくもあり、不安でもある。正直概ね不安である。正直スマンカッタである。意味もなく懺悔である。彼女に後ろめたい秘密を持っている男は、例えば彼女の口から「カラオケ」という彼女にとっては何でもない言葉が発せられただけで、あのコと二人でカラオケに行ったことバレてんじゃねーかとドキドキするのであってそんな小心で脆弱な自分の心理状況がチョーうざい。猜疑心とか被害妄想とか何これ病気? どっちかっつーとメンタル系? 家のガスの元栓閉めてきたか気になる性質? 寂しいから手首切りました? ネットで公開不幸自慢? 自我の安定とか? なんか虐待とかでトラウマみたいな? あのコと二人でカラオケに行ったのも小さい頃オヤジにぶたれてたってことで万事オッケー?
「うん。私も彼氏の着メロ指定にしてるよー。えっとねー。大きなのっぽの古……古……そうそう古時計!」
どういう種類の記憶の欠如なんだ。どこでどう言葉を区切って学習してるんだ。
「だけどさー、ホントに好きなのー? なんか勢いっぽくない? そういうの」
どうやら恋愛に関する話らしい。彼女は、世界情勢の進展よりも隣のカップルの進展具合が気になるし、株価の変動よりも話し相手の心変わりが最大の関心の的であったりすると2本目の缶ビールを開けながら思っている僕は、景気の後退よりも髪の生え際の後退が気になっております。関心の的であります。主に周囲の関心の的であります。歓迎せざる好奇の目を向けられているのであります。僕が抱くハゲへの危惧は同僚と飲みに行ったときの酒の肴になったりします。
「だって1回だけでしょー。1回寝ただけでわかるわけないじゃん。私、彼氏といっぱいエッチしてるけど、まだ何考えてるかわかんないとこあるもん。そんな1回だけじゃわかんないよー」
何を言っているんだ。何突っ込んだ会話してんだ。何いろんな意味で突っ込んでるんだ。あー顔赤くなってきた。赤面していることを彼女に指摘されたらアルコールの所為にしよう。「ちょっとコンビニに煙草買いに行ってた」とでも言うように、「ちょっとアセトアルデヒドの血中濃度が上昇しちゃって」なんて何でもない口調で弁明しよう。彼女の電話中のエッチな話で赤面するって、電車内のカップルのイチャつき具合を見て勃起することぐらいみっともない。いつか使おうと思ってた言葉をやっと使える時がきたから使うけど不体裁である。しかし彼氏といっぱいエッチしてるって、そんなことカミングアウトして一体何を考えているのだ僕の彼女は。彼氏といっぱいエッチしてるマナミちゃんは。ということは僕もマナミちゃんといっぱいエッチしてるけどまだ何考えてるのかわからないことがある。エッチするたびに理解できないことが増える。エッチの時に、マナミちゃんバンザイした格好で故意に手を動かさなくて犯されてる気持ちになったりしている。僕たちは体を重ねる度に、心が混沌としていく。なるほど。理が適っている。
「えー? 先週のバレンタイン? うん。会えなかったの。彼氏仕事終わるの遅くってー」
ドキドキ。今度はバレンタインの話。つーかイベント多すぎるんだよと思う。イベントの度に思う。先月正月きたばっかじゃねーかよと思し召す。だいたい女が男にチョコ贈るなんてのは日本独自の習慣だろうがよー。欧米は何してんのか知らんけど。インドとか何してんのかもっと知らんけど。とにかくバレンタインに会えなかったからってうじうじするなっての。それを電話でうだうだ言うなってのバリうざいんだけど(キ`д´)y-~~
「えー。そうなんだー。どうりでー」
何を納得してるんだ。何が道理なんだ。さっきはバレンタインに対してクリティックなオピニオン、批判的な見解を論じてしまったけれども、やっぱりバレンタインは彼女と過ごすべきだよなぁ。日本に生まれたんだから右に習えしなけりゃ何も始まらないもんなぁ。バレンタインに彼女と会わないっていうパイオニアなんて必要ないもんなぁ。でも、でもね、自己の事情を説明して弁解してみるとね、つーかぶっちゃけ言い訳なんだけどね、あの時はどうしても断れなくて会えなかったんだもんなぁ。どうしても断れなかったのです。自己決定権の剥奪というか略奪というか。まぁ言い訳なんかしても仕様がないけどね。男の言い訳なんて、犯罪者の犯行の動機が「ムシャクシャしてたから」レベルの納得できないものなんだからね。
「ウソ! 手作り? すごーい。私コンビニのチョコだったぁ。やっぱ3年も付き合うとね、何もかもコンビニで済ませちゃうの」
そう言ってソファーに寝転びながら彼女は、名前はマナミっていってお付き合い3年目。結構可愛いんだけど、浜崎あゆみの陰な歌詞聞いて勝手にブルーになったりしてるのがちょっとネック。あと「短い夏がー始まっていくー」なんて元気そうにネガティブなことを歌うのがネック。そんな彼女がそんなこと言ってリビングの僕の方を見る。僕が苦い顔をしているのは2本目のビールの所為だけじゃなく、
「最近なんて晩ご飯もコンビニで済ませちゃう」
こういう現実に基づいている。
「で、これからどうすんの?」
彼女は足で器用にリモコンを寄せてテレビのチャンネルを替えながら話を続ける。3年付き合って、コンビニのチョコと晩ご飯。そして下らない長電話にビールを飲んで耐える日常。これからどうすんの? 僕だったら、別れのセリフを考える。キミへの愛は情緒ではなくて、幻想だった。とかね。うっそー。嘘です。嘘嘘。神様今のセリフ聞いてたらゴメンなさい。嘘です偽りです冗談です。神様ゴメンなさい。ただの独り言です。独り言っていうかただ頭の中で考えただけなんだけどね。神様ってほら、絶対頭の中で考えたこととかも見抜くでしょ普通。普通って知らんけど。日本の神様はそういうの結構ナイーブでしょ。アメリカはどうか知らんけど。インドとかはもっと知らんけど。
「へぇ、諦めないんだぁ。こういう時の女って強くて怖いもんねぇ。だけど私も諦めないかな。また1からやり直しとか面倒臭いしね」
妥協なのか。僕は妥協の産物なのか。なんだか面倒臭いから僕でいいってことなのか。また1からやり直しだから諦めないって、努力のベクトルが少し間違ってるような気がするし。諦めないの使用法間違ってるよ。そしてどういう時の女は強くて怖いんだ。女はどんな時も強くて怖いじゃないか。特に子宮内膜が剥がれ落ちて血液と共に排出される2・3日前とかもっと怖い。そんな時マナミちゃんは「アチョー!」とか「フンガー!」とか言いながらポテトチップスばりばり食べるから、そういうとき僕は故意的に会わないようにしている。
「ちょっと待っててね。彼氏に聞いてくるー」
そう言って彼女は奥の部屋から僕を呼ぶ。そして、「ねぇ、これからどうすんの?」と先ほど電話先の相手に投げ掛けた同じ質問をする。おかしなことを言う。確かに缶ビール飲むくらいしかやることがなくて、ただなんとなく電話の会話を聞いていたけど、事の詳細を知らない僕はコメントできない。なぜ何も言わないんですかと、記者が質問したら、えっと、大企業の幹部という設定で、どっかから訴訟されたとして幹部の僕がカメラに囲まれるわけですね。で、事の詳細を知らない幹部の僕は、「訴状を見ていないのでコメントできません」と言う。これ一度言ってみたい。訴状見てても言ってみたい。これを言ってみたいがために大企業に就職して幹部になって訴訟を起こされたい。しかし僕の目の前にはカメラではなく彼女。名はマナミ。そして彼女が僕の方へ伸ばした腕の先には、僕の、携帯。
「おいっ! これっ! 俺の……!」
「うん。あなたのよ。あなたがシャワー浴びてるとき携帯鳴って『E.T』ってワケわかんない名前が表示されたから電話取ってみたの」
「か、勝手に電話とるなよ!」
「だってE.Tとお話してみたかったし」
「なっ……!」
「だけどE.Tじゃなかったの。『コノホシハ ホントウニ アオイデスカ』なんて言わなかったの」
「ホンモノのE.Tもそんなこと言わないよ!」
「E.Tじゃなかったけど、E.Tだったわ。遠藤敏子。アルファベットでE.T。なるほどさぞかし敏子チャンはおメメがくりくりしてることでしょう。自転車のカゴに乗せたいくらい可愛いことでしょう。しかもその宇宙人、あなたの彼女って名乗ってるじゃない。私もあなたの彼女として結構話が合っちゃって」
彼女はその憎悪を込めた瞳を除いては、無邪気に笑っていた。それは弁解の余地すら許さない強迫的な笑いだった。彼女の笑いが伝染して僅かながら僕の顔にも広がる。しかしその二つの笑いは全く種類の異なるものだった。そして彼女は言い訳の許されない最後の宣告をした。
「で、これからどうすんの?」